第13章 膜にかたちを与えるもの
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ライバルチームとの競争
私たちが追いかけていた獲物に関して、少なくとも世界で3つのチームが競争に参加していることをお互いが知っていた
一位のチームだけがその場所に旗を立て所有権を主張することができる
存在場所が、そのタンパク質の機能を示唆する
膵臓の消化酵素分泌細胞の中にあり、消化酵素を充填した分泌顆粒と呼ばれる区画を取り囲む膜状にだけ存在しているタンパク質
精製した分泌顆粒膜を解析してみると、そこには複数のタンパク質の存在が認められた
この時点でわかることは、そのタンパク質の大まかな大きさ(分子量)とその存在量でしかない
タンパク質はポリアクリルアミドゲルと呼ばれる薄い板の上にぼんやりとした影となって現れる
この中に、ただ一つ突出して多く存在しているタンパク質があった
私たちはこのタンパク質をGP2という無機的で控えめな名前で呼んだ
GP: グリコプロテイン
このタンパク質はアミノ酸の他に糖でできた鎖を身にまとっていることが別の分析法でわかった
2は、ポリアクリルアミドゲルに並んだ大きさの順番が二番目だったから
しかし私たちにはこのタンパク質が分泌顆粒の膜の動態に対して重要な機能を担っているはずだという確信があった
このタンパク質が奇妙なふるまいをすることに気づいたから
ライバルチームはまだ気がついていないかもしれない
GP2の奇妙なふるまい
細胞の内部では、通常、酸性でもなくアルカリ性でもない中性
尺度はpHと呼ばれ、pH7が中央値、下がると酸性、上がるとアルカリ性
細胞内pHは中性より若干高いpH7.2~7.4に保たれている
一般の酵素反応など生命活動にとって最も至適なpH
細胞内を模した中性pHの溶液を入れた試験管にGP2を置いても何も起こらない
ところがGP2をpH5あるいは6という弱い酸性状態に置くと、GP2は試験管の底に沈んでいった
酸性に置かれるとGP2は、分子同士が互いに集合し大きな凝集塊となって沈澱を起こしてしまったのだ
全く奇妙なことに、沈殿したGP2を再び中性のpHに戻してやると、集合していたGP2分子はばらけて溶液の中に溶け込んでいく
つまりGP2はpHの中性→酸性の変化に依存して、可溶性→沈澱を引き起こし、しかもこの状態変化は可逆的なのである
細胞内部にもういちど閉じた膜で囲まれた世界として作り出された分泌顆粒の内部は、細胞にとって外部となる
そしてこの内なる外部世界のpHは、細胞内が中性であるのに対して酸性側に傾いているという事実がちょうど当時、わかりかけてきた頃だった
もう一つ重要な事実は、GP2がその尻尾を分泌顆粒の膜に係留して、分泌顆粒の内側すなわち酸性側にその本体を向けているという発見
膜は異なるpH環境のバリアーとなっている
分泌顆粒の膜はその外側を細胞の内部に、その内側を顆粒の内部に向けていることになる
つまり分泌顆粒の外側は中性pH、内側は酸性pHにさらされることになる
膜に対してタンパク質がどのような方向で結合しているか
これもまた細胞生物学における重要なトポロジーの問題
トポロジーが場所を特定し、その局在性が機能を特定する
細胞は自分自身の内部に別の内部を作ってそれを外部とした
このような区画分けはそれだけで秩序の創出となる
区画の内外で、別々の環境を作り出し、それぞれ個別の反応や活動を営むことができる
タンパク質のトポロジーもその役割に応じて、どちらの世界に面して生きるかが厳密に決められることになる
分泌顆粒膜に結合しているGP2のトポロジーは"見て"確かめることはできないがこれを化学的に調べる方法がある
膵臓細胞から分泌顆粒を無傷のまま取り出す手法は先に記した
この分泌顆粒に対して、タンパク質に結合する特殊な標識化合物をふりかける
ただしこの標識化合物はその性質上、分泌顆粒の膜を通り抜けてその内部に入り込むことはできない
一定時間の後、化合物を洗い流す
そうしてから分泌顆粒を壊して膜だけを精製して分析する
もしGP2が膜の外側に存在していれば、標識化合物と結合しているはず
GP2が幕の内側に存在していれば、反応から隔離されていたので標識化合物は結合していない
かくしてGP2のトポロジーが決定された
膜の秩序はいかに組織化されるのか
ちなみにこの試験管内実験は、GP2のしっぽの部分を特殊な酵素で切断し、膜から切り離したGP2を集めて行ったもの
実際のGP2は膜にその一端をつなぎとめられている
リン脂質は膜を前後左右に動き回ることができる
その動きは膜という二次元平面上での移動に限られることになる
此処から先は純粋な推理となる
膜は非常に安定したかつ柔軟性をもった薄いシート
秩序は、この不定形のシートから、たとえば球形の分泌顆粒膜を作り出す過程として生み出される
おそらく最初に起こることは、アメーバ状の不定形シートに囲まれたある区画の内部のpHが低下することから出発する
膜上に存在するプロトンポンプという特殊な装置が区画内にプロトン(水素イオン)を組み入れる事によって区画内部のpHは下がる
不定形のシートは多数のリン脂質分子が二次元的に整列したもの
この中にはGP2を結合したリン脂質が存在するが、大多数は何も結合していないただのリン脂質
やがてpHは6もしくは5.5程度まで下がって止まる
GP2はpHの変化に応答して、その表面の化学構造がシフトし、互いに結合できるような凹凸を作り出す
GP2はこの凹凸の相補性に基づいて結合を開始し、次第に二次元的な集合を形成するだろう
細胞の内部で不定形の膜の一部が特殊化されて、分泌顆粒膜が形成されるとき生じているメカニズムはまさにこのようなものではないかと私たちは考えた
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ここで仮に、GP2というタンパク質が、球形の風船と言うよりは、"跳び箱"のような台形構造をとっていると考えてみたい
するとpHの酸性化にともなって分子集合する跳び箱は結合するにつれ、台形の辺と辺がくっつきあうことにより、平面ではなく穏やかな局面を作っていくだろう
これはまさに不定形の膜の一部から、分泌顆粒になるべく出芽し始めたドームが組織化される瞬間なのである
このプロセスがさらに進行すると、GP2は膜を丸く支える裏打ち構造となって、GP2のネットワーク構造が広がるにつれて膜はどんどん球形へと近づく
後は、この部分にぶんぴつされるべきタンパク質が充填され、出芽した膜のドームがくびれ取られれば分泌顆粒が完成し、元の膜から離脱することになる
私たちにはこれが実に素敵なアイデアに思えた
膜に繋がれたタンパク質の形の相補性によって、膜の秩序が組織化される
その動力はpHの酸性化によるタンパク質自身の構造変化
だから分泌顆粒の内部は酸性pHなのであり、分泌顆粒膜の内側に結合しているタンパク質としてGP2は最も大量に存在している
他の細胞生物学研究者が発表する研究成果がいちいち私たちを勇気づけた
細胞内のプロトンポンプを止めてしまう薬剤を細胞に振りかけると、分泌顆粒の形成は一斉にストップするデータが発表された
プロトンポンプが停止すれば、区画内のpHは酸性化されない
そうなればGP2は互いに結合できない
でもそのことを知っているのは私たちだけなのだ
あるいは消化酵素タンパク質を弱酸性下におくと、消化酵素同士が緩く結合しあって大きな集塊を形成するという知見もあった
酸性化を原動力にして膜が球形に組織化されるときに、実は、その膜内に充填されるべき「積荷」もまた酸性化を動力として自己集合している
ローラー作戦
しかしこれだけでは私たちは新種のトリバネアゲハを発見したことにはまったくならない
それが本当に未発見の重要な新種であるかどうかはまだ証明できていない
似たような性質や同じような大きさを持つタンパク質は複数存在する
つまりジグソーパズルのピースはどれも同じように見える
同じように見えるタンパク質にそれぞれ異なった固有の形を与えるのは、そのタンパク質を構成するアミノ酸配列のユニークさ
アミノ酸とタンパク質の関係は、文字と文章との関係に対応する
ならば、重要な機能を果たす新しいタンパク質を見つけたと主張するためには、そのタンパク質の全アミノ酸配列を決定し、それが未知のものであることを言明しなくてはならない
GP2の大きさから考えて、このタンパク質はおよそ500個のアミノ酸が連なったものであると推定された
タンパク質から一つ一つアミノ酸を切り離し、それが20種あるアミノ酸のうちどれであるかを決定するのを500回繰り返す
たとえどれほど潤沢に研究資金があり、しかも純度の高いGP2がたくさん精製されているとしても、これは現在でも技術的にきわめて困難な課題
当時、すなわち1980年代の後半、私たちがとりうる選択は一つしかなかった
タンパク質そのもののアミノ酸配列をすべて決定することはあきらめて、そのアミノ酸配列を指定してる遺伝子のコードを解読すること
すでに記したように、アミノ酸ひとつを指定する遺伝子は3つの塩基配列
だから500個のアミノ酸からなるタンパク質の遺伝子は1500塩基からなる
文字数は一気に3倍に増えてしまうが、圧倒的に有利なことがある
アミノ酸を特定するには似たような性質の20種からひとつを同定するため高い分離精度が要求される
その点、4つの異なるものから一つを同定することは比較的容易い
何より遺伝子は増やすことができる
たとえばマリスのポリメラーゼ連鎖反応(PCR)によって
最大の問題はGP2の遺伝子がゲノムの中のどこに位置しているかを探すこと
ゲノムは30億塩基の情報量を持つ
その中から、GP2の1500塩基の場所を見つけ出さなくてはならない
ゲノムプロジェクトが完成した現在から見ると非効率的な行為に見えるが、ローラー作戦のような手作業を行った
にわかには判別し難い噂が終始もたらされた
ニューヨーク大学のチームがGP2の重要性に気がついてその遺伝子探索に邁進している
いやドイツの研究者のほうが先行しているらしい、彼らはすでにほぼ目的地に到達しているようだ
私は全く余裕が持てなかった。学術誌の新しい号を開くのが怖かった
ささやかなワン・ピース
イザベラ・スチュワート・ガードナー美術館からフェルメールの名画「合奏」が盗まれた年の秋、私たちのチームは目的とするGP2遺伝子の特定とその全アミノ酸配列をアメリカ細胞生物学会で発表した
ライバルチームもその同じ学界で私たちと全く同じ構造を発表した
同着だった
お互いの仕事の正しさが確認された瞬間でもあった
→第14章 数・タイミング・ノックアウト